訓練が終わった時には、すでに日が沈もうとしていた。
バブル崩壊によって頓挫した山の上のマンション計画は、そのまま新たな開発計画が持ち上がることも無く放置されていた。山の上の開けた空間は有刺鉄線で囲われてこそいたが、子供の隠れ家や肝試しに使われるだけの、死んだ不動産になっていた。
夏場は忍び込む子供やカップルの絶えない囲いの中は、季節が秋から冬に変わる頃には閑古鳥が鳴くようになる。かろうじで建物の様相を呈した箇所には、腐った水とカビの臭い、菓子の空き袋や空き缶、ペットボトルが散乱し、ほうき草が生えた荒れ野は、膨らんだ本や花火の燃えカス、プラスチックの弾丸などが転がっている。
「つかれたー」
切り払われたほうき草を尻に敷いて、汗を拭ったのは緑の髪の少女。トリコロールではない。淡いブルーのジャージ姿だ。無言で差し出されたペットボトルを受け取り、喉を鳴らして飲む。
「慌てて飲むとむせるぞ」
「だいじょ・・・ぐへほッ!」
言わんこっちゃない、白い髪に、黒いトレーニングウェアの少年は、少女の濡れた胸元をタオルで拭いてやる。そのまま首と顔も拭き上げる。
「ほらアリア。汗はちゃんと拭け。風邪を引く」
「ありがとソヴィア」
頬を染めてはにかむ少女アリア。しかし、その姿は薄闇にまぎれていた。
二人は、この廃墟を訓練に使っていた。教師は常にソヴィアで、生徒はアリアだった。アリアの痩せた肢体はあまり運動に適していない。しかし、だからといって投げ出すわけには行かない。そうしなければ危険が増すのだ。
「少し休んだら帰るぞ」
ソヴィアの呼びかけにアリアは頷き、それが見えていないかもしれないと気付いて「うん」と返した。訓練に使った道具や荷物を回収し、リュックに詰めるソヴィアの姿を目で追いながら、アリアはふと考える。
自分でも分かっていることだが、アリアは馬鹿だ。物事を複雑に見ることが苦手なのだ。それに短絡的で直情的だ。幼少期の栄養不足のせいで筋肉も骨も未発達だし、知識も持っていないし技術も稚拙だ。日本語だって自分で使っているわけじゃないし、料理の一つも満足にできない。
アリアは考える。
自分は、足手まといなんじゃないのだろうか。ソヴィアは賢く、技術もしっかり身についているし、三ヶ国語が喋れて、料理も得意だ。もっと、ソヴィアのための訓練があって、それをやればソヴィアはもっともっとすごくなるんじゃないのだろうか。自分がソヴィアの枷になってはいないのだろうか。
そう考える。
帰り道。
整地されていない山道はでこぼこで、当然街灯も無い。今日は生憎の曇天で月はおろか星のひとつも見えない。眼下遠くに瞬く街の明りは、足元を照らしてくれるほどにも明るくなかった。
「・・・まるで今日の訓練だな」
自嘲的なソヴィアの言葉に、アリアは自分の恐れていたことが、本当だと確信した。足手まといなのだ。アリアは、ダメな子なのだ。
だが、ソヴィアの次の言葉は、アリアの予想に反したものだった。
「アリア、今日は悪かった」
「・・・え?」
謝られるなんて。謝るのは自分のほうなのだ。アリアが悪いんだ。ソヴィアの足を引っ張ってばかりで。
「教えるのがこんなに難しいとは思わなかった。やることを頭の中で組み立てていたが、上手くできなかった。自分では当然のようにできることでも、それを誰かに伝えるっていうのは勝手が違う」
ソヴィアの独白。アリアにはアリアの悩みがあるように、ソヴィアにはソヴィアの悩みがあるのだ。多分、あのモノクロの少年はいつも通りの融通の利かなさで「アリアに上手に教えられなかった」とか悩んでいるのだ。そして「アリアの成長の妨げになっているのかも」とか。
そこまで考えて、アリアはクスクス笑った。まさか、そこまで一緒なはずない。それにソヴィアは賢いから、きっと「ならどうするか」で頭の中は一杯のはずだ。
「ソーヴィア!」
アリアの目は、闇を見通す。だから正確にソヴィアの手を掴むと、ぎゅっと握った。
「えへへー」
ぶんぶん振る。なんだか可愛いと思った。そして一緒にいたいと思った。でも、ソヴィアの言うとおりだ。何て言ったらいいか分からない。このあふれ出て爆発しそうな想いをどう伝えればいいか分からない。
「・・・どうした?」
「なーんでも♪ 早く帰ろッ!」
アリアはちょっぴり、今日の曇天に感謝した。ソヴィアが足元が見えないから、こうやって手を握れるのだ。
握り締めたソヴィアの手が暖かかった。