事の始まりはちょうど二週間前の晩、自宅のリビングでのこと。
「ユエ、ちょっといい?」
「!……は、はい」
うつらうつらとしていた少女は返事をした所まではよかったが、自分の裏声に気付いて少し顔が赤くなる。それを見て、尋ねた白髪の青年が目を逸らして笑いを堪えるものだから、「なんでしょう」と赤い顔のまま催促。
「ユエはどこか行きたいところある?」
机の上には旅行やレジャーのパンフレットが並べられ、その表紙にはどこかしこで聞く地名が自己主張している。
ユエがさっと目を通すだけで高原、湖畔、海、山、遊園地に古都などなど。都会以外の地形は全て網羅されているかのような節操の無さである。
この「提案」ともとれる突然の相談の意味を、ほんの少し深読みしたところで少女の口元が緩んだ。
「マクさんはどこか行きたいところとかありますか?」
「んー、私は特に無いかな。強いて言えば……行った事がないところがいいか」
「言った事ないところ……えーっと……どこでしょう?」
そう言って、ユエがパンフレットと言う名の地図を見渡す。ただ、返事は「気にしなくていいよ」の一言だった。
改めてパンフレットを見て、少女は少し想像力を働かせた。最近見始めた映画とか、読み始めた小説とかのワンシーンを材料に創造し、それを少し補完して顔を赤くする。
「?」
ただ、しばらくしてマクが首を傾げた。ユエはちらちらと、ある一枚のパンフレットを見てはすぐに他のパンフレットに、そしてまた視線が戻ってくる。
「ここ……がいいと思います?」
遠慮がちに、少し他人行儀なユエにマクは少し苦笑い。それからユエの頭を撫でて「ここのほうが今の時期は過ごしやすいよ」と、微笑む。それで行き先が決まった。
そうして来たのが泉のある高原。涼やかで心地よい風とうっすらと靄のかかった湖面。到着から一夜明け、朝焼けを見つめながらユエはため息をついた。
ユエは思う。二人で旅行なんて考えても見なかったと、まるで夢のようだと。だからそれはちょっとした失敗でさえ酷く彼女を切なくさせる。
「あれ?」
扉の開く音にユエが振り返ると、コテージから外出の準備を整えたマクが出てくるところ。
「マクさん、おはようございます。お出かけですか?」
駆け寄って、挨拶。明るく振舞った甲斐あって、暗い顔よりは寝不足のほうがちょっとだけ顔に出てる。
「おはよう。出かけるから準備してきなさい」
「どちらまで?」
「私が行った事ないところ、だよ」
そう言って一枚のパンフレットをひらひらとさせて白髪が申し訳なさそうに笑う。
「遊園地……ですか?」
「うん、実は他のところは全部行った事があってね、せっかくだから近くに泊まって一回くらいは遊んでおこうかと思っていたんだけど……あ、そういえば、遊園地はカップル御用達だそうだよ」
「そうなんですか……私、てっきり小さい子だけだと思ってました」
「小さい子もいる、ってだけだよ」
と、マクは微笑む。それからユエが支度をするのを待って、馬車に乗り込んだ。
「向こうまで一時間弱だから少し寝ておきなさい。お昼は向こうで、帰りは夕方頃かな」
マクはスケジュールを言いながら、手綱を器用に捌きつつ、空いたほうの手でユエの頭を撫でる。
「マクさん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「……ん、どういたしまして」
と、返した白髪は「嘘に気づいていた事に気付かれていないか」と少し首を傾げてから「遠回りが過ぎたな」と少女の寝顔を見て苦笑した。
ただの衣替えだから悲喜こもごもとか、そういう事はなかなか無い。けれど、区切りとしては非常に重宝する。これから暑くなるぞ、寒くなるぞ、というだけでなく。
「まだ寒くなってないんで、冬服とかあってもちょっと困りますよね。マクさんはそういうの、大丈夫ですか?」
お腹がいっぱいの時に晩御飯の献立を考える、と、同じニュアンスで少女が困り顔。マクと呼ばれたほうは小さな笑いだけ返している。
「あ、あの、去年の服、ちょっと小さくなってました」
そう語る少女は少し嬉しそうにうつむく。
「ユエは大きくなりましたか?」
マクがあやすようにたずねると、満面の笑みでこくこくと頷く。
「あ、でも、その……昔の、着れなくなりそうで、ちょっと嫌です」
そう言いながら脇に畳んである服を広げる。それは昔、マクが買ってあげた服で、少女にとっては特別の一着。
「ああ、裁縫道具は下だから今度直しておくよ」
と、白髪は作業に没頭するふりをしながら。
「裁縫道具?」
「うん、少し大きくすれば、まだ着れるよ……ところで、背はどれくらいになったの?」
半瞬の沈黙。マクが無言でメジャーを取り出すと、観念して少女がまっすぐに立つ。
「ふむ、一年で二センチ近く伸びてる」
「……ありがとうございます」
これで一段落と衣替えを再開するが、それもまたすぐに止まる。
「あ……マクさん、これ」
タンスの下段、冬服のさらに奥、取り出す予定の無い服を見てユエが声を上げた。
「ん? あ……それか」
「久しぶりで……ちょっと懐かしいです」
取り出された黒い制服。少し埃をかぶっているだけで、その重さ、感触は少女の記憶とまったく変わらない。
「ちょっと着てみませんか?」
「これ?」
「はい」
マクは少し躊躇いつつも、少女の期待に満ちた瞳と満面の笑みに屈したようで、苦笑いしながらも袖を通し始めた。
「相変わらずだぶだぶです……」
背が低い事を気にしてか、少し不機嫌にそうもらす。
「私のだしね」
自分より頭一つ小さい少女の頭を撫でながら笑う。
「でも、マクさんは……やっぱしかっこいいです」
「ん、ありがとう」
見慣れているから、はマクの蛇足。
マクは「ユエも」と、喉まででかかったが、この服では不本意なのでやめることにした。代わりに、もう一度頭を撫でて、恥ずかしそうにする少女を見て笑った。
日が暮れるまでには衣替えも終わり、黒い服はまたタンスの奥にしまい込まれ、来年の春の訪れを持っている。
「あー……しまった」
顔にかぶせた本が落ちる。寝起きの寝ぼけ眼で頭をかく仕草。雨が降り始めたと思って、腰を上げた頃には豪雨。蒸し暑かったから来るかなとは思ってた。ただ、それは言い訳になってしまったようである。
洗濯物を部屋の中に放り投げて、びしょびしょになった白い髪を、びしょびしょのちょっと手前のバスタオルで拭き、寝癖のなくなった髪を後ろで束ねる。
どうせ汗をかいて着替えるつもりだったから、と、苦笑しながらシャツを着替え、本を拾い上げ机に置き、洗濯物は部屋に吊るす。それからソファーに腰掛けて、本を手にしたところで動きが止まる。
「……夕立か」
黒い空を見上げてから玄関へ。少し立ち止まってから靴をはく。傘は二本。一本は広げて右手に、もう一本は閉じたまま左手に。
轟々という詞がぴったりなどしゃ降り。傘の持ち主こそどこ吹く風と微笑んでいるが、ズボンと傘は何かの冗談に思えるほど現在進行形で濡れている。
一日の時間の中だとちょっとの間の、嘘のような大雨。いっそ潔いまでに降る雨は少し心地よいほど。真っ黒な空があと数十分で夕焼けに変わると思うと、またそれも不思議な出来事に思える。
しばらくしてから足が止まったのは赤レンガ造りの古く大きな洋館、町の図書館の前。それから時計塔に目を移して微笑むと、ゆっくり傘を閉じる。
雨の音に耳を澄まし、でも洋館の中には入らずに入り口で立ち尽くす。出入りはほとんどない。たまーに入り口まで来てうんざり顔で引き返す人がいる程度。
「あと二、三分くらいか……うーん、先にあがるかなあ……ぎりぎりか?」
雲行きを見る。あたりを見回す。次第に人が増え、流れていく。もう一度空を見る。少し雨の勢いが無い。
「帰ったかな……ん?」
視界が突然真っ暗に。小さな手のひらの温もりと、がまんしている笑い声はいつものこと。
「ユエ?」
「だーれ……マクさん、早すぎますよ!」
「誰かさんの悪戯には慣れててね。これから帰り?」
「はい。えっと……マクさんは?」
予想していなかったお迎えに、少女が遠慮がちに尋ねる。
「下町に用事があってね、たまたま通りかかったところ。一緒に帰る?」
びしょびしょの姿で傘を二本もってその台詞。けれど本人は大真面目。ユエの視線が二本の傘に下りたところで、ようやく墓穴を掘ったと気付いているありさま。
「はい。いつもありがとうございます。でも、雨、止んじゃいましたね?」
満面の笑顔でお礼をする少女を見て、白髪が照れ隠しに目を泳がせる。ただ、袖を引く手はちゃんと握り返していた。
「あ、マクさん、綺麗な虹ですよ」
綺麗な大きな虹。それを指差す少女を見て、白髪は満足げに微笑んでいた。
「ぅへぇ……」
暑い……と言うより熱い午後の始まりに、そんな悲鳴が漏れる。彼女自慢のブロンドの髪だけは変わらず太陽のような輝きを保っていたが、持ち主であるリディア自身がぐうの音も出ていない。
「暑い!」
大声。それに対して「よけい暑苦しい」と苦情の視線が飛んでくる。
「コートに長ズボンで何を言ってるんだ?」
「タイチョー……筋肉が暑苦しいので視界に入らないでください」
「……すまんな」
と、タイチョーと呼ばれた同居者はリディアを蹴飛ばし、視界の外に転がしていく。
「いえいえ……そうだ、マクラウド君のところに遊びに行きましょう! きっとユエちゃんが快適に過ごせるように何か狂った壮大な対策が……」
「……今、私が机に向かって何をしてるように見える?」
机の上には書類と辞書の山が五つほど。正面には羊皮紙に書かれた証書が置かれている。
「暑中見舞い?」
「なるほどな。それならば行けそうだ」
「ですよねー」
「私は仕事が残ってる、一人で行って来い」
「ですよねー……」
暑さのせいで蝉は休業中。たまに弱々しく風鈴が鳴る音と、紙をめくる音が静かに響く。
「ユエのところには行かないのか?」
「うん、外、暑いから涼しくなってから行く」
ぐったりと床に転がるリディアを見かねてか、タイチョーは団扇を両手に構え、風を送る。
パタパタパタパタ……。
「美少女には汗は似合わないと思います」
「少女は少し図々しいぞ」
パタパタパタパタ……。
「タイチョー、暑くないんですか?」
「心頭滅却すれば火もまた凉し、という事だろう」
パタパタパタパタ……。
「……すー……すー」
「まったく」
三角帽子を取り、枕を頭の下へ。氷嚢をおでこに、額の汗を拭く。
たまに弱々しく風鈴が、時々紙の刷れる音、小さな寝息がすーすーと。
「まったく、暑いな」
肘に付いた資料をはがし、ボソリと苦笑した。
どこいつでその話をしたかはうろ覚え。けれどやる事もないしと……なんとなくと、少女は家のソファーで一人本を読みながら思い至った。
百科事典なんて目じゃないくらいぶ厚い専門書にしおりを挟む。外に出る支度、と言うのは特にない。後ろで結った黒髪を鏡の前でもう一度確認し、玄関の鍵を閉める。
外に出ると夕焼け空。一日中読書に勤しんだ体には少し刺激が強くて、思わず目を細めた。
石畳の坂道を少し下る。そうすれば町に着いて祭りの輪に入れる。そう信じていた。
色彩豊かな光が夜の町をいっそう盛り立て、普段とは違う祭り特有の賑やかさが躍っていたが、少女にはどうしても今日一日と名残惜しむようにも感じられてしょうがなかった。
賑やか。それは間違いない、と、少女はため息をついた。別に自分の考えが叙情的だったから、と、言うわけではない。あてが外れたから。
ここに来れば一人で居る寂しさくらいは紛らわせることが出来ると、そう思っていた。小一時間前の自分の考えの甘さに余計虚しくなり、ちょっと泣きたくなる。
少し歩いて町の真ん中にある噴水の縁に腰掛ける。そこは普段から町で一番賑わう場所。
(どうせなら祭りの終わりまで、終わりの静けさまで堪能してから帰ろう)
昔の思い出。お祭りがあって、静けさがあって……今は違う。そう、解かってる。つもり。けれど?
次第に人影が減り、店の明かりも消えていく。最後に店閉まいの音に混じった店主同士の雑談。幾度か心配されて声をかけられるが、丁寧に断りを入れた。
「嬢ちゃん、早く帰れよ?」
お祭りは終わりと告げられた。けれど期待したかった。
まだ少しだけ商人の姿が見える。深夜の到着なのだ、スケジュールが狂った者が多いらしく、安眠を保障される町まで辿り着いた者たちの表情は一様だった。
残ったのはゆらゆらと、心細げに揺れる街灯。ただ、その街灯の明かりに長い影が伸びていた。
小さく笑う。それから立ち上がり、付いた埃を払い……。
「遅すぎです」
と、小さく呟く。ただ、表情は柔らかく微笑んでいた。
「ごめん」
息を切らせて彼が言う。
「冗談です。三日も早く帰ってきてくれて凄く嬉しいんですよ……」
そこまで言って、言葉が続かず、代わりに抱きつく。
「……寂しかったです」
抱きつく口実のために今日一日があったのかな? そんな事を、突然の事に狼狽しつつも受け止めてくれる彼に感謝しつつ、ちゃっかりと思った。
「帰りますか?」
「お散歩なんてどうかな?」
「はい」
いつものように手を繋いでお祭りを後にする。いつも隣に居た彼は、彼女がこんなところに居た理由すら解からずに微笑んでいるが、少女は説明をする事無く、舌を出して笑うだけだった。