どうして時間をずらさなかったのか、とか、すぐに引き返さなかったのか、とか。
脱衣所は別々とはいえよく考えれば分かったはずではないのか、とか。
そんなこと考えがをアッシュの中で延々と繰り返されていた。
今更考えるのは無駄だと分かっている。分かってはいるのだが、しかし何とかしなければいけない気がしていた。
最も、実際はどうすればいいかわからずに、ただただ湯に浸かることしか出来ていないわけで。
すぐ後ろにいるはずのエリスは、今のところ動く気配もない。
二人が入っているのは、とある宿の露天風呂。
そう、「二人で」入っているのがアッシュにとっては問題なのだ。
温泉宿として栄えている地域まで足を運んだ二人は、せっかくだからと宿を取ることにした。無論言い出したのはアッシュだが。
二人が選んだ宿には大衆用の風呂と少人数用の家族風呂がいくつかあり、エリスのことを考慮して後者の一つを貸切にしてもらっていた。
それなのに、気が付けば二人同時に温泉に入ってしまったのだ。一体それがなぜだったのかは、アッシュは未だにはっきりとした理由を思い出せない。
しかし入ってすぐに出るのも失礼なような気がして、そのまま現在に至る。
アッシュは後ろを振り返ったまま、エリスの姿を見ていない。しかし背中に人の気配を感じていた。
その顔がどんな顔なのは想像も出来ないが、殺気は感じられないのでひとまず身の危険はなさそうに思えた。
風呂は二人が入ってもなお場所に余裕があり、うっかり相手の身体に触れてしまうという事故はないだろう。
ひとまず風呂から上がるタイミングを見計らっていたアッシュだったのだが。
「……!」
急に背中に僅かな重みを感じ、アッシュは一瞬飛び上がりたくなるほどの衝撃に駆られた。
背中には確かに湯とは違うぬくもりを感じるのだから、多分そういうことで。
感触からして薄布は纏っているようだが、それでもいろいろと困るもの。
もうアッシュはどうすればいいか分からずに、ただただ固まるしかなかった。
結局アッシュが湯船から上がったのはエリスが去ってから随分と経った後。
ややのぼせ気味の彼を見て、エリスはどこか意地悪な笑みを浮かべていた。
いつだって物が雑多に置いてある場所。
それが、エリスが抱くアッシュの部屋に対する感想だ。
仕事に使う薬品や道具はもちろんのこと、様々な種類の本やその他何に使うのか分からない物まで、とにかく物で溢れている。
しかし決して乱雑に置かれているわけでもなく、ある程度は整理されている。
そんなアッシュの部屋の真ん中を、なぜか大量の布が占拠している。
「……何に使うのだ?」
借りていた本を片手に、エリスは布とにらめっこしていたアッシュに尋ねた。
「ああ、そろそろ服を新調しようかと思って」
家事の得意なアッシュは、服も自作できる腕前を持つ。現に、エリスの服もほとんどがアッシュのお手製だ。
「季節の変わり目だしね、ちょうどいいと思ってさ」
「ふむ……」
エリスは本を元の戸棚に戻すと、横目で布を選定中のアッシュを見やる。
何やら真剣そうに作業しているので邪魔をしてもいけないと思い、そそくさと部屋を後にしようとしたのだが。
「あ、エリスはどれがいい?」
突然話題を振られた。
見れば、エリスの目の前には何枚かの布が広げられている。どうやら、この中から好みの物を選べということらしい。
「………」
エリスは困った。服や色に対しての好みなど、これまで考えたことはほとんどない。
特に服選びに関しては苦労してたため、着れればいいという考えがある。好みなど考える余裕はなかったのだ。
なので結局、
「……まかせる」
そう言って、エリスはそのまま部屋を後にした。
つまりそれは、自分のセンスが問われているということか。
アッシュはエリスの行動をそう解釈した上で作業に取り掛かった。
晴れていた空にいつの間にか暗雲が立ち込め、やがて振り出した小雨はいつしか大粒の雨へと変わっていた。
そんな中を、リュコスは娘を抱えて家路へと急いでいた。
娘と遊んでいて天候の変化を気づけなかったことを後悔しつつ、ようやく家に帰り着いた頃には二人ともずぶ濡れになっていた。
腕の中の娘を見れば、外で鳴り響く雷の音に怯えてすっかり震えている。
「よしよし、もう大丈夫だ」
優しく声をかけながら、乾いた布でずぶ濡れの娘の身体を拭いてやるが、相変わらず娘は彼の腕から離れようとしない。
このままでは自分が着替えることも出来ないので、リュコスはどうしたものかと考える。
そんなとき、再び外で雷が鳴った。
「やぁ!」
再び彼にしがみつく娘。顔を覗き込めば、青と金色の瞳はすっかり涙で潤んで今にも泣き出しそうな顔をしている。
無理もないか、とリュコスはため息をついた。娘は、エリスはまだ三つなのだ。
とりあえず自分も着替えなければ、と思い着替えのある自室へと向かう。
不安そうな目をした娘を一度ベッドに降ろして、手早く彼女の着替えを済ませ自分の服を抜いたところで、また雷の音が響いた。
今度こそ泣き出してしまった娘をあやしながら、リュコスは着替えを断念してベッドの毛布にくるまった。
そして雷の音が鳴り終わるまで、外の雨が止むまで、ずっと娘を抱いていた。
「きゅ~」
スターチスは、エリスのひざの上で震えていた。
外は大粒の雨が降っているらしく、屋根に叩きつけるような音が鳴り響いている。
同時に鳴っている雷の音が怖いのか、スターチスはエリスの傍を離れようとしない。
「え、エリス大丈夫?」
彼女が未だスターチスに慣れていないことを知っているアッシュが代わろうかと声をかけたが。
「……すぐ止むだろうし、いい」
と、彼女にしては珍しい返事が返ってきた。
しばらくその様子を心配そうに見ながらも、やがてアッシュは夕食の支度に取り掛かった。
その傍らで、エリスは本を読みながらスターチスの背中を撫でていた。
最初にそう提案したのはレイラだ。精神年齢と肉体年齢が一致していない彼女の提案は、いつだってシンプルだった。
「外、暑いわよ?」
そう返事をしたのは彼女の双子の姉のライアだ。そんな彼女は窓の外を見て、うんざりそうな顔をしている。
「暑いから、水浴びしたいな」
妹はもう一度同じ提案を口にした。どうやら、外の熱気にも負けずに遊びに出たいらしい。
確かに家の中にいても暑いのは変わりないのだから、外に出て涼むのも一興かもしれないとも思う。
何より、ライアは双子の妹にいつも弱かった。
「……じゃ、行く?」
「行く~」
喜び勇んで準備を始めた妹を見て、ライアは少し苦笑した。
「……なんでオレ達まで?」
双子の家からほど近い川の中、カイトはふと我に返ってみた。
確か、居候先として暮らしている双子の家で暑さでバテていたはずだ。そして、いつの間にか川の中にいた。
「どうしたの?」
ぼうっとしていたからだろう、レイラが彼の顔を覗き込んだ。そして彼はここにいる理由を思い出す。
そうだ、いつものように彼女に誘われたんだ。
「ああ、なんでもない」
覗き込まれたことに気づいて少し顔を赤くするカイト。それを見て、レイラは満面の笑みで「遊ぼう」と言った。
彼女の服には何か魔法でもかけたのだろう、濡れても一切透けていない。
カイトはそれを見て少し安心したのだが。
「何見てんのよ」
一瞬でもまじまじと見ていたからだろうか、なぜかライアに頭をどつかれた。
「で、お前らは入らないのか?」
川で遊ぶ三人とは少し距離を置いて水浴びしていたアレスは、木陰で座り込む二人に声をかけた。
「ああ、私はいいです」
とヘルが返事をすれば、
「私も」
と、クレロスもそれに追随した。
どうやら傍観者を決め込むつもりでいる二人を見て、しばし考えるアレス。
「ヘル、ちょっと来い」
「何ですか?」
ふいにアレスが手招き。ヘルは何の疑問も持たないで彼に近づいた。
そのまま近寄ると、アレスは思い切りヘルの腕を引っ張った。
バシャーン
お約束どおり、思い切り川の中に引きずられたヘル。
「何するんですか!」
「いや、別に」
そして、まじまじとヘルを見つめるアレス。
ヘルの服はすっかり濡れており、体のラインがくっきりと見える。腰なんかは片手で掴めそうなほど細いし、濡れた黒髪もまた、どことなく艶っぽい。
「そっちも何見てんのよ」
そしてアレスもまた、契約者同様ライアに思い切りどつかれた。
それは、ある依頼を終えての帰り道でのこと。
道中にある町で大規模な祭りが開催されているとのことで、アッシュはそれを見ていこうと提案。
エリスは人混みが苦手なので最初は渋ったのだが、アッシュの押しの強さにとうとうそれを認めたのだった。
町の人混みは二人の予想を遥かに超えたものだった。
道には露天と人が所狭しと溢れ、あちらこちらでにぎやかな声が聞こえる。
「どこかで待っててくれていいよ?」
さすがにこの人混みは辛いだろうとアッシュはそう提案したが、エリスは意外にも首を横に振った。
「…少しくらいなら」
確かに、この人混みで二手に分かれても後々合流できるか不安ではある。
それに宿も酒場もどこも盛況で、どこかで静かに過ごせそうな場所もなかったのだ。
とりあえず、二人で中心部から離れた露天でも覗こうかということになったのだが……。
これが最大の罠であった。
露天には見たこともないような品々が数多く並べられており、アッシュはその中でも使えそうな薬草や食品などを買い揃えていた。
そんな最中にアッシュはふと、肩にのしかかる重みを感じた。
振り返った先で見たものは……。
「エ、エリス?」
アッシュは慌てて倒れこんだエリスを両手で支えた。見れば彼女の顔はすっかり青ざめ、血の気を失っている。
買い物に夢中になって気づかなかったのだが、いつの間にか人が最も集まる中心部に来てしまったらしい。
周囲を見渡して見れば、人が密集し歩くのも精一杯な状況だ。元々こういった環境が苦手なエリスには相当厳しかったのだろう。
アッシュは、もっと彼女に気を配るべきだったと後悔した。いや、いつもならそれなりの配慮はしてきたつもりだ。
しかし今日はすっかり買い物に夢中になってしまい、結果的にエリスに限界を超えるまで無理強いをさせてしまった。
顔色の悪いエリスを支えながら、アッシュは慌てて人混みを後にした。
「……ごめんね?」
帰り道、アッシュは小さく謝罪した。
間違いなく怒られると思ったのだが。
「……別に」
意外にも、エリスからはいつもの返事が返ってきただけ。
拍子抜けするアッシュを尻目に、エリスはどんどん先へ進んでいく。
己の不甲斐無さも大概なのだろうが、とエリスは思う。
あんな楽しそうなアッシュを見て何も言えなくなる自分も、まだまだ甘いなと思わず苦笑した。