その日、K県笹尾根の気温は32度だった。
一週間連続の平均気温+5度オーバー。まごう事無き猛暑である。アリアとソヴィアのふたりは、エアコン完備の食堂で涼んでいた。
「このとき彼はどう考えていた?」
「うらぎりの代償に罰がほしかったんでしょ? でも叩かれるのはやだなぁ」
「その前に殴ってるぞ?」
「お互いあいこにしたかったのかな? でも、それって優しい嘘かも。だって、ホントにうらぎったんじゃなくて、思っただけだもの。王さまは、戻ってきたことよりもお互い思いやって空気を変えようとするけど、なんか不器用なふたりに感動したのかも」
「俺が待つ側なら、戻る前に逃げるかな」
「あたしはソヴィアを待つー!」
「……」
アリアは学校にいっていない。そもそも戸籍が無い。ソヴィアもまた戸籍は抹消されているが、教育は一通り受けていた。だから、アリアの教育係は、ソヴィアだった。
ソヴィアはアリアに足りない一般常識を叩き込み、本を読ませ、知識を植え付けていた。
「ふたりとも、晩御飯までクーラー消しマスよ」
と、管理人が顔を出した。顔を見合わせる二人。クーラー無しは死ねる。
「ソヴィアの部屋にえあこんある?」
「無いな。こないだ買った扇風機はどうした?」
「え、えと~……」
言葉を濁すアリアを、ソヴィアは不審そうに見つめる。
「つ、使えるよ! がんばってくれてるよ!」
「じゃあ、続きはアリアの部屋だな」
「う、うん……」
アリアとソヴィアは、ふたりが属している組織の主有するマンションに暮らしていた。二人とも部屋をもっているが、お互いなんのてらいも無く行き来していた。
「……」
「そ、ソヴィアー?」
「……」
「あ、あついよー?」
当然のようにアリアの部屋に入ったソヴィアは、南向きの大窓が、どれほどの効果をもって部屋を暖めるかを実感した。フローリングが歪んで見え、空気が粘り気を持っていた。
「扇風機は?」
「つかっても、暑いだけー」
事実、扇風機が空気を攪拌しても僅かな心地よさも無かった。むしろ熱い空気が動くせいで、延々粘り付くような不快感が続いた。
「……続けるぞ」
「ええええーッ!?」
「お前、『プラズマ』だろう?」
「うー、それはそうだけどさぁ」
アリアの肉体は、電解することが可能だ。その場合の放射熱は、気候を変える可能性があるほどである。しかし、だからといって暑いのが大丈夫なわけではない。
「ソヴィアは何で平気そうなの?」
モノクロの少年は、襟まできちっと止めた長袖だ。暑くないはずが無い。しかし、彼は涼しい顔。汗一つかかず、暑さを感じていない様子だ。
「……そんなに暑いか?」
「う? うんうん!」
返ってきたのは質問。しかしアリアは訴える勢いで首を大きく振った。
「……」
「……?」
「プールでも行くか?」
「うん!」
喜色満面でプールセットをかき集めるアリアを見て、ソヴィアはわずかな罪悪感にさいなまれた。
魔法とか、そういう類のずるではない。もっとひどいものだ。ソヴィアには幽霊が取り憑いている。故にソヴィアは、いついかなる時も寒気を背負って生活していた。
それが当たり前で、当たり前になりすぎて、ソヴィアは暑さに鈍感になっていた。寒気以上に冷えるのは分かるが、猛暑を酷と感じなくなっていた。
かばんに詰め込んだプールセットを突き出し、きらきらと目を輝かせるアリア。ソヴィアは少し面倒になり、無言で頭を撫でた。
最初にそう提案したのはレイラだ。精神年齢と肉体年齢が一致していない彼女の提案は、いつだってシンプルだった。
「外、暑いわよ?」
そう返事をしたのは彼女の双子の姉のライアだ。そんな彼女は窓の外を見て、うんざりそうな顔をしている。
「暑いから、水浴びしたいな」
妹はもう一度同じ提案を口にした。どうやら、外の熱気にも負けずに遊びに出たいらしい。
確かに家の中にいても暑いのは変わりないのだから、外に出て涼むのも一興かもしれないとも思う。
何より、ライアは双子の妹にいつも弱かった。
「……じゃ、行く?」
「行く~」
喜び勇んで準備を始めた妹を見て、ライアは少し苦笑した。
「……なんでオレ達まで?」
双子の家からほど近い川の中、カイトはふと我に返ってみた。
確か、居候先として暮らしている双子の家で暑さでバテていたはずだ。そして、いつの間にか川の中にいた。
「どうしたの?」
ぼうっとしていたからだろう、レイラが彼の顔を覗き込んだ。そして彼はここにいる理由を思い出す。
そうだ、いつものように彼女に誘われたんだ。
「ああ、なんでもない」
覗き込まれたことに気づいて少し顔を赤くするカイト。それを見て、レイラは満面の笑みで「遊ぼう」と言った。
彼女の服には何か魔法でもかけたのだろう、濡れても一切透けていない。
カイトはそれを見て少し安心したのだが。
「何見てんのよ」
一瞬でもまじまじと見ていたからだろうか、なぜかライアに頭をどつかれた。
「で、お前らは入らないのか?」
川で遊ぶ三人とは少し距離を置いて水浴びしていたアレスは、木陰で座り込む二人に声をかけた。
「ああ、私はいいです」
とヘルが返事をすれば、
「私も」
と、クレロスもそれに追随した。
どうやら傍観者を決め込むつもりでいる二人を見て、しばし考えるアレス。
「ヘル、ちょっと来い」
「何ですか?」
ふいにアレスが手招き。ヘルは何の疑問も持たないで彼に近づいた。
そのまま近寄ると、アレスは思い切りヘルの腕を引っ張った。
バシャーン
お約束どおり、思い切り川の中に引きずられたヘル。
「何するんですか!」
「いや、別に」
そして、まじまじとヘルを見つめるアレス。
ヘルの服はすっかり濡れており、体のラインがくっきりと見える。腰なんかは片手で掴めそうなほど細いし、濡れた黒髪もまた、どことなく艶っぽい。
「そっちも何見てんのよ」
そしてアレスもまた、契約者同様ライアに思い切りどつかれた。
大陸西部の街道脇に、二頭立ての馬車が止まっていた。
幌付きの馬車は鉄製の枠がつけられており、かなり上等なつくりだ。引く馬は若くは無いが骨が太く、荷馬としては優秀な部類に入るだろう。
馬たちはくつわを外され、桶一杯の水を呑み、飼い葉を食んでいる。彼らの主人らは焚き火を囲んでおり、談笑しながら肉を炙っていた。
「干し肉作った奴は天才だね、あたしはこれがあれば他の食べ物いらない」
言いながら干し肉に歯を立てるのは、不健康そうな娘。西部でも東部でも見かけない、抜けるような肌の娘だ。外見は人形のように整っている。ただし、内面は即していないようであるが。
「肉は高いからな。もっと黒パンも食え」
禿頭の巨漢が娘に固そうなパンを差し出した。娘は噛めば噛むほど味が出る肉をもごもごとかみ締めながら柔らかそうな太ももで黒パンを挟んだ。切れ味の悪そうなナイフでゴリゴリとパンを切り、切ったそれをナイフの先に刺して焚き火で炙る。
「パン嫌い」
「お前、白パン食ったら逆になるぞ」
「白パン? そんなの気持ち悪くて食べれないなぁ」
禿頭と娘のやり取りに、小さな影が苦笑した。一目で砂漠の人間だとわかる特徴的なマントとターバンの少年は、娘から受け取った黒パンを小脇に抱えてクックリで切る。砂漠の男の魂だとされるクックリは、人間も動物も捌ける万能の刃物だ。
「君たちも食べればいい」
そう言って、少年が黒パンを差し出したのは、二人組みの女性。
夕刻、ならず者に襲われていたところを彼らに助けられた二人は、まるで野生動物のように警戒し、言葉も食事も口にしていなかった。
「ドレイクは顔が怖いし、ハサドはなんか変だけど、あたしたちはまだ悪党じゃない」
娘が女たちに微笑みかける。禿頭の男ドレイクの目から見ると、怯えた目の女たちの服装は安物ではない。耳飾や指輪は派手ではないが細工がしっかりしているし、服の縫製も一流の手によるものだ。しかも、旅着では無く普段着に近い。靴もヒールがあり、街道を歩くのには向かないだろう。
ハサド少年は女たちが黒パンを受け取らないと見ると、自分で口にした。興味津々な娘と違い、彼は他人に興味を持たない。
と、不意にくうと可愛らしい音がした。一同の視線が女たちに向く。女の片割れが赤い顔で腹を押さえていた。
「おなか減ってるなら食べなよ。さっきのは冗談で、本当に悪党じゃない。それにあたし、同年代の女の人と話してみたい」
一瞬、娘の目に真剣な光が宿る。女たちはそれに気付かず、二人で見詰め合った。今更ながらにドレイクは女たちの容姿を観察する。二人とも良く似ていた。背は特別高くないが、プロポーションは悪くない。切れ長の目はきつい印象を与えるが、美人の類だろう。長い金髪は丁寧に編みこまれている。やはり……。
ドレイクが見つめる中、赤面していない方の女が意を決して干し肉をつかんだ。
「姉さんッ!」
もう一人、妹なのだろう、止めようとするのを振り切り、姉が干し肉にかぶりつき、あまりに濃い味に目を白黒させて喘いだ。
娘は、自分も最初食べたとき同じようにむせたのを思い出して微笑んだ。
「ぅへぇ……」
暑い……と言うより熱い午後の始まりに、そんな悲鳴が漏れる。彼女自慢のブロンドの髪だけは変わらず太陽のような輝きを保っていたが、持ち主であるリディア自身がぐうの音も出ていない。
「暑い!」
大声。それに対して「よけい暑苦しい」と苦情の視線が飛んでくる。
「コートに長ズボンで何を言ってるんだ?」
「タイチョー……筋肉が暑苦しいので視界に入らないでください」
「……すまんな」
と、タイチョーと呼ばれた同居者はリディアを蹴飛ばし、視界の外に転がしていく。
「いえいえ……そうだ、マクラウド君のところに遊びに行きましょう! きっとユエちゃんが快適に過ごせるように何か狂った壮大な対策が……」
「……今、私が机に向かって何をしてるように見える?」
机の上には書類と辞書の山が五つほど。正面には羊皮紙に書かれた証書が置かれている。
「暑中見舞い?」
「なるほどな。それならば行けそうだ」
「ですよねー」
「私は仕事が残ってる、一人で行って来い」
「ですよねー……」
暑さのせいで蝉は休業中。たまに弱々しく風鈴が鳴る音と、紙をめくる音が静かに響く。
「ユエのところには行かないのか?」
「うん、外、暑いから涼しくなってから行く」
ぐったりと床に転がるリディアを見かねてか、タイチョーは団扇を両手に構え、風を送る。
パタパタパタパタ……。
「美少女には汗は似合わないと思います」
「少女は少し図々しいぞ」
パタパタパタパタ……。
「タイチョー、暑くないんですか?」
「心頭滅却すれば火もまた凉し、という事だろう」
パタパタパタパタ……。
「……すー……すー」
「まったく」
三角帽子を取り、枕を頭の下へ。氷嚢をおでこに、額の汗を拭く。
たまに弱々しく風鈴が、時々紙の刷れる音、小さな寝息がすーすーと。
「まったく、暑いな」
肘に付いた資料をはがし、ボソリと苦笑した。
大陸西部の街道を、二頭立ての馬車が進んでいた。
幌付きの馬車は鉄製の枠がつけられており、かなり上等なつくりだ。引く馬は若くは無いが骨が太く、荷馬としては優秀な部類に入るだろう。
御者台に座るのは禿頭の大男。筋肉質な胸と頭部に翼飛竜の刺青を入れており、名もドレイクといった。
「治安が悪いみたいだな」
幌の中に話しかけるドレイク。
「そうなの?」
返事は、女の声だった。まだ若い。幼いとも言える。
「商人とすれ違ったが、挨拶無しだ。変な因縁つけられたくないんだろうな」
「ドレイクが悪党面だからだよ」
意地の悪い笑い声。ドレイクは憮然とした。
「お前とて人相は良くあるまい」
「あたしは『見た目は』普通だよ。ドレイクは奴隷監督とかにも見えるね」
「監督される側だがな」
「違いない」
トリティオンの秋祭は、東西の珍品名品が集まるとして名高い。物見に行く貴族も多い。無論、それに乗じようとする輩も多くなる。
ドレイクと女、そして馬車の中で寝ているもう一人の同行者は、祭とは関係しない。ただ、それぞれの目的のために進んでいる。
しかし、それにしてもすれ違う人数が多い。トリティオンの祭は一週間で、残りは半分足らずだが、それでも向かう人間は多いようだ。逆に、離れる人間は少ない。
「やあドレイク」
ロバを引いた商人が、気軽に挨拶した。ドレイクはトリティオンでは意外と有名だ。顔見知りも多く、こう言うことも少なくない。
「一時間ほど前に二人連れの女とすれ違ったんだが、二人とも旅慣れてなさそうでさ」
商人は眉根を寄せた。心配なのだろうが、その鼻の下が微妙に緩む。
「良かったらその馬車乗せてやんなよ、きっといい思いできるから」
「……そうかい」
ドレイクは微妙な返事をし、商人に礼を言った。この馬車が同行者の持ち物であることや、女連れであることは言わない。面倒になるだけだ。
「女二人って危ないのかい?」
馬車の中から娘の声。
「お前は特別なんだろうよ」
日が傾くにつれ、すれ違う人間は少なくなる。街道とはいえ、野犬などの猛獣が出ないとは限らないし、途中にいくつもの宿場がある以上は屋根のある場所で寝たいのが人情だ。
宿場に宿を求めないものにはいくつかのパターンがある。急ぎの旅や、金銭的な理由。そして、泊まることができない。
ドレイクらは、二つ目が理由だった。三人とも野営には慣れているし、宿場で目を放したうちに馬泥棒に会うほうがよっぽど面倒だからだ。
そして、ドレイクの視界に居る連中は一つ目と三つ目が理由だろう。
「かなりの別嬪じゃねェか!」「おいおい、傷物にすんなよ!」
下品な笑い声。怯える二人の女。ドレイクは厄介ごとに顔をしかめ、幌から顔を出した娘が感嘆した。白い肌の娘だった。人形のような無色の髪と、抜けるような肌。血の色の瞳。それでいて、娼婦のように素肌を露出していた。
「なるほど、『そういう』危ないか」
娘が馬車から降りる。右手には手斧。二人の女を囲む悪党は片手では数え切れないが、両手はいらない程度の数。
「あの女はどうなる?」
娘の問いに、ドレイクは面倒そうに馬を止めた。脇に差した長剣を引き抜く。
「壊れるまであいつらの慰み者か、奴隷か花街に売られる」
面倒そうな顔とゆっくりした動き。しかし、目は真剣だ。
「お祭って、怖いもんだね」
娘は肩をすくめると、猪突した。